篆刻オーダーショップ土抱

作品の生まれる時

2013年9月10日

書は思い立ったらすぐに書くことができる。
緻密に設計して創作することも、もちろん出来るが、その時一度しか書けない線があるというのが魅力のひとつだ。

空海/風信帖どういう時に名作が生まれるか、ということに昔から関心がある。
名品と呼ばれる古典たちには、手紙だとか草稿だとか手控えなど気負わずに書いたものが大変多い。名作が生み出される要素には、こういった気負いのなさが必要なのだと思う。

その書を書く背景には、筆をとるに至るきっかけがあって、その気持ちが高ぶって筆を運んでいるのだろう。気持ちの高ぶりは気負いとは違って「書く」ことの原動力だ。気持ちが動いて書くことに意味がある。気持ちとは別に計画どおりに書いた作品には魅力が少ないのだと思う。

有名なところでは、空海の風信帖や、王羲之の十七帖はじめ尺牘は手紙である。王羲之の時代のことはあまり知らないのだが、空海の時代には、例えば最澄から届いた手紙に返事を出す場合は、持ち運んだ者を待たせて返信をしたためた書もあった。まさに気持ちが冷めぬままの書だ。

書は、緻密に設計しても完璧にその通りに書くことは不可能だ。だから、クリアな脳でひらめいたまま書く文字に精彩が生まれるわけで、設計通りに筆を運ぼうとする意識が作品の精彩をマイナスに運ぶのだ。

あまり計算しすぎないことや、時間や手間ばかりかけていては、いい仕事にならないというのは、他のいろいろな芸術や何かを成し遂げる時にも共通する場合が多い。分かりやすい例では、寿司職人がネタに手を触れる時間は短い方がよいと聞いたことがあるが、それも人肌でネタが温まってしまわないようにという理由からだ。ホイップクリームを立てる時、10分立ての状態を過ぎてもまだ泡立て続けるとボソボソになってしまったりもする。何事にも最適なスピーディーさというものがあるということだ。


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